誰も見ないであろうこのblogをこうして更新させる。
 きっと誰にも話すことがないだろうことを書く。
●音楽について。
 つまりこれは先日のヒトカラで思ったこと。
 もはやこの分野は聴くだけのものではなくなっている。
 歌うという形で、演奏するという形で生産できるのである。
 そして生産物のクオリティーは、その行為の価値に依存しないという新しい形の芸術。
 これは小説における文章やキャラクターだって同じことで、
 特にキャラクターに関しては昔(小学生の頃)兄上と同じような議論をした覚えがある。
 『キャラクターウイルス論』である。
 ウイルスというのは感染したもののDNAや生殖力で増えていく。
 それ自体に生殖力がないのである。
 キャラクターというのも同じで、それを見た者の頭の中で勝手に妄想が膨らむものではないかというものだ。
 近年でいうツンデレだって、ツンなところをみせれば、自動的に読者の頭の中にそのキャラの別の面が再生されるもの。
 で、音楽は聴き手の頭の中で育ったものが、歌うという形でアウトプットされるのである。
 ならば、これはキャラクター物の同人誌と同値。
 理之貫が同人誌に商業誌的なクオリティーを求めず、作者のキャラへの妄想などを評価するのは上のような理由かもしれない。
 そして、理之貫が『書く』というのも同じ理由なのだ。自分の頭の中にある妄想やイメージをそのまんま筆に起こす。
 だから面白さに形と速度という性質がそなわってくる。
 面白さの形……『なにがどういうふうになったからこういうふうに面白い』とはっきりと説明できる面白さ
 面白さの速度…一目見て上のような面白さがすぐに理解できるということ
 だからどうということはないけど、ようするに文学でも文芸でもないということ。