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今日分かったこと。
最近の理之貫の文章はすべて情報の提示であったということが判明した。
言われてみれば理之貫はそれを目指していた。
理之貫の書く小説の主題は、結局は論理展開であり、すべて情報である。
キャラクターの魅力も、人物のしぐさや感情も細かく分解すればすべて情報で成立している。
それゆえ無駄なものを一切排除し、論理性と合理性のみを究極的に追及すると人物描写がなくなるはずである。
よって、論理展開をみせるミステリで人物描写がなくても不思議とは理之貫は思わないし、そもそも理之貫らが楽しんで読む海外ミステリには人物描写は基本的にない。
クイーンを読んでもらったら分かるが、訳者によるが、地の文はすべて「〜と言った。」「〜を見た。」とかいう短い文章。理之貫らは論理展開を期待して読むからそれでも問題ない。
で、そういうふうにしなくてはいけないものだと思ってわざとそうしていた。特に最近は描写を一切しないように努めていた。
今でも描写をまったくしない行為に何の問題がないように思う。論理展開を見るのに人物描写という読者に無駄なエサを混ぜながら小説を作る必要性がないからだ。
これは2010年理之貫革命である。
むしろ、小説には論理展開を楽しむものと雰囲気を楽しむものの少なくとも二種類があって、理之貫のようにはっきりと条件と情報をつきつけているようなものは、論理展開を楽しんで読むものだと思っていた。
そうでなければ、みんなハヤカワミステリとかハヤカワSF文庫とかどうやって読んでいるのだろう。人物描写は皆無なはずだ。
そして理之貫の小説から描写を楽しもうとしてみんな読んでいたのかというショック。
そりゃ合評会も話にならないと思う。理之貫の小説は描写がないことが楽しい小説だと思っているからだ。
日々、無駄な描写を無くすことに頭を悩ませていたというのに。
だから、そもそも普通の人とは感性がずれていたのだ。それが判明。
今後は一年前くらいの文体で執筆をしてみようと思う(とんでも長くなるが、そういうものなのだろう)。
理之貫のような人間は山のようにいるだろうが、全体を見ればマイノリティーに違いない。
大変勉強になった。貴重な一日である。
あー、それにしてもシックだなぁ。
ミステリを人物描写で読んでどうするんだと思う。
なんでミステリ読む人は文芸とミステリの両方を理解してるのに、文芸の人はミステリに文芸要素を求めるのだろう?
やっぱりミステリは英語で書くべきだ。それを日本語でやるのが本格ミステリだろう。
そりゃ描写がメインの作品は描写するさ。でも全部の作品にそうしなくてはいけないことはないと思うんだけどさ。
たとえばダイイングメッセージを残す時の被害者の心情、それを表現するための描写とか必要か?
そんなのが書かれてあるより「被害者はこのメッセージで犯人が誰なのかを伝えたかった」とはっきり書いてある方が嬉しいんだけど。
被害者の心情を書くことが主題の小説なら心情をいっぱい書けばいいと思うけど、「被害者はこのメッセージで犯人が誰なのかを伝えたかった」ということを前提として論理展開するんなら、それを簡潔に正しい日本語で読者に示すのがミステリの在り方で面白さだとずっと思ってた。今まで読んできたものと今まで過ごした環境、そしてその仲間から、そういうものだと確信していた。
なのに、なんですべての人の心情を欲するんだろう。
なんでその後の限定とか伏線とかが主題であることに気づかないんだろう。
今まで書いてきたのは文芸サークルとしては全部無駄だなぁ。
文芸サークルにいても仕方ねぇな……。
すべてにやる気がなくなった。
もう当分、執筆はしないと思う。